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立川志らくさんの「反日像」発言について





TBSテレビの『ひるおび!』で、「あいちトリエンナーレ」に展示されていた『平和の少女像』について、「日本人の多くの人が反日の像だと思っている」と発言したことが物議を醸している。
志らくさんが、どういう理由で反日の像と言ったのかはわからないが、私はその通りだと思う(詳しくは、昨日付けのブログを読んでください)。

テレビやSNS上での発言が議論を呼び起し、時には炎上することがしばしばあるが、意見を交換する(対話の)場を作る上でとても良いことだと思う。しかし、中には意見ではなく、単なる反対や意見に対するものではなく発言者への誹謗中傷が加わることで、混乱を招いている様子が散見される。
意見を述べる場として見るのであれば、ある程度のルール(マナー)が必要なのではないだろうか。
1. 相手を誹謗しない(特に人格をけなすような書き込みをしない)
2. SNSに参加するのであれば、質問に答える覚悟を持つ

多くは、ハンドルネームを使っているので匿名性が強いせいか過激な発言が多い。SNS自体の特性がそうなのかもしれないが、感情的な大人の振る舞いに欠けるような書き込みはいただけない。
SNSを良い文化のためのツールとして活かしていくには、個々の高い意識が求められるのではないだろうか。


【談論風発】 ―  だんろんふうはつ
盛んに論じあうこと。































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愛知トリエンナーレの「平和の少女像」





日本による統治下で、強制的に慰安婦とされた人たちを象徴的に描いた展示作品が撤去された。出品者は、この作品で『表現の自由』を謳いかけていたらしいが、『プロパガンダ(思想・主張の宣伝広告)』の意味合いが強いという考えから撤去を求める声が多く、しかも中には過激な抗議もあったために撤去された。

『表現の自由』とはなんだろう。ひと言でいえば、「思想,主張,事実などを検閲されることなく対外的に発信する自由」になるのだろうが、すべてが自由なわけではない。日本では自由に行われてきたヘイトスピーチは制限されている。ドイツでは、ナチスが使用していたハーケンクロイツ(鍵十字)を禁じている。卑近な例では、落書き。ノートや教科書への落書きではなく、無許可で民家や公共施設にするものを誰も表現の自由とは言わない。ただし、圧政下などでの落書きは、表現の自由に当たるだろうけれども。

では、「平和の少女像」撤去は、表現の自由によって守られるべきものだったのだろうか。多くの人がこの像を知ったのは、ソウルの日本国大使館の前にこの像が設置されたときであろう。作者の意図がどうであったかを知らないが、この時点で『表現の自由』を超えて『プロパガンダ』になってしまったのではないだろうか。
像を見て、あれこれ考えを巡らせることなく、「強制的に慰安婦とされてしまった人の不幸と統治していた日本への怒り」という答えが、既に大使館前に設置されたときに出来上がっている。
主張が一方向に向いてしまった。韓国人から見れば「憎むべきは日本が犯した所業」。日本人から見れば「韓国から突き付けられた刃(やいば)」となり、『平和』の二文字が消え去ってしまっている。
本来、悲しみを感じ、平和を願い・誓う思いをこの像から得られるべきなのだろうが、もはやそうではない。反日の象徴となってしまっている。あきらかにプロパガンダだ。
そうであるとすれば、公共の施設にこの像を展示することが、そもそもの間違えであったのではないかと思われる。撤去には賛成です。

しかし、脅迫をしてきた人を探し出し、厳罰に処してほしい。この人こそ『表現の自由』を阻害している。


【自由自在】 ―  じゆうじざい
自分の思うままにふるまうこと。































日韓問題





隣同士の国は、仲良くなれないものなのだろうか。インドとパキスタン。イランとイラク。イスラエルとパレスチナ。コスタリカとホンジュラス。中国とベトナム。数え上げればきりがないくらいだ。
日本と韓国も近いがゆえに長い間不仲な関係が続いており、最近はとみに悪化している。
日本での報道をもとにした考えなので偏りがあるかもしれないが、口を閉ざして意見を述べずに「なるようになるさ」と静観を決め込むのも卑怯だと思いここに意見を述べます。

領土の問題や日本の国防を脅かす自衛隊機へのレーダー照射問題に加えて、歴史上の負の遺産の賠償問題(慰安婦問題、徴用工問題)が、なにひとつ解決または改善をみずに積み重なっている。
日本からは、報復ともとられかねない『ホワイト国からの除外』が宣告されている。
こうなると“ボタンの掛け違え”という言葉では収まらない。泥沼状態といってもいい状況に陥っている。
日本からの抗議があっても、話し合うこともなく放置してきた韓国も議員団が話し合いを求めてきたが、双方が主張を述べるだけで解決の糸口が見られていない。当然のことだ。決定権のない者同士が何度話し合っても問題の解決が見られるはずもない。
アメリカによる仲裁も話題になっているが、諸問題の先送りであれば何の意味もない。
だいいち両国の首脳が膝を交えて話し合うこともなく、兄貴分に「どうにかしてくださいよ」というのは、余りにもみっともなさすぎる。そんな首脳は、即刻辞めるべきだ。

日本政府の弱腰外交にも不満がある。韓国が竹島の実効支配に対しても、「遺憾に思う」を繰り返すばかりに感じられる。
レーダー照射問題に対して、「自衛隊機を敵とみなすのであれば、友好国とは思えない」くらいの言葉を投げかけるべきだ。「厳重に抗議する」では、多くの国は甘く見るだろう。
慰安婦問題は、勝手に財団を解散したことに対して「賠償」を求める。
徴用工問題は、「戦時下での徴用は、日本政府に全責任があるので、企業の財産の差し押さえは妥当ではない」。
日本海を“東海”と呼称を変えろという問題は、「韓国が東海と呼ぶのは結構ですが、明らかに日本の西にある海です」くらいの投げかけをするべきだったのではないだろうか。(笑)
「遺憾に思う」、「抗議する」を連発しても、なんら意味をなさない。

ただし、意見の主張は対話を引き出すための前哨でなければならない。対話無くして外交はあり得ない。けれども、仲よくすることが外交の目的ではない。もちろん、戦うことが外交の目的でもない。手打ちをして、決め事をする。それだけに集中すればいいのではないだろうか。したたかに、相手を愚弄することなく。民間レベルの交流を邪魔することなく。日韓両政府ともに外交べただから泥沼にはまってしまう。お互いに相手をバカにしていないだろうか。相手をバカにすると、正常な主張も判断もすることが出来なくなる。

中島みゆきの「Nobody is Right」という曲で、「正しさと正しさとが相容れないのはいったいなぜなんだ」と歌っている。キリストも、自分が正しいと思う人はサマリアの女に石を投げろと言っている。日韓両政府の主張も、おのおのが正しいと言っているだけかもしれない。対話が必要だ。



【近所合壁】 ―  きんじょがっぺき
隣近所のこと。































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